ISSの大先輩「ミール」、北の大地で宇宙開発史の語り部に 苫小牧

Science Portal 4 日 前
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 今月初め、国際宇宙ステーション(ISS)は飛行士の長期滞在が始まって四半世紀の節目を迎えた。米露や日本など15カ国の協力で、宇宙に常に誰かがいる状態で実験などが続いていることは、人類史に残る業績だ。そして、このISSには大先輩がいたことを、忘れてはならない。旧ソ連、後のロシアの宇宙ステーション「ミール」だ。北海道苫小牧市内に、飛行士らが訓練に使ったとみられる貴重な機体が展示され、宇宙開発史の語り部となっている。宇宙ファン垂涎(すいぜん)の、この科学館を訪ねた。

見学者でにぎわう宇宙ステーション「ミール」展示=北海道苫小牧市の市科学センター見学者でにぎわう宇宙ステーション「ミール」展示=北海道苫小牧市の市科学センター

「宇宙開発の生きた姿を体感」

 JR苫小牧駅から歩くこと15分。国道を渡り、さらに少し進むと「ミール展示館」の看板が見えてきた。苫小牧市科学センターの別棟で、外からでもガラス越しに、赤いソ連国旗を身につけたミールが目に入った。入館するや「どうぞご覧下さい。記念写真もお撮りしますよ」。職員の温かい声掛けに、東京から訪れた疲れが吹き飛んだ。

来館者を蒸気機関車「C11」が迎え、そのすぐ奥に「ミール展示館」がある来館者を蒸気機関車「C11」が迎え、そのすぐ奥に「ミール展示館」がある

 年季を感じさせつつ、静かに横たわる巨体。「これが、あのミールなんだ」と、感慨がこみ上げた。いったん離れて全体を眺めた後、見学用に取り付けられた階段を昇って船内へ。食事もできる作業台、操縦室、飛行士の個室、トイレ…飛行士たちがフワリと浮かんで暮らす姿を思い描いた。次に、機体の周囲を一周し、装備品の各種アンテナ、ドッキングポート、姿勢制御エンジンなどなど、じっくり観察。展示館の2階からは全体を見下ろすこともできた。平日も団体でにぎわう時があるが、それ以外は独占状態に近くなる。

 ミールは1986~2001年に運用され、高度400キロほどを周回した宇宙ステーション。ドッキングを重ね、最終的に主に6つのモジュール(棟、区画)で構成した。このうち、苫小牧には全長13メートルの本体「コアモジュール」に加え、天体・宇宙物理観測や姿勢制御に使われた、同6メートルのモジュール「クバント」も展示されている。

「苫小牧のミールを全国の子供達に見てほしい」と語る島崎さん「苫小牧のミールを全国の子供達に見てほしい」と語る島崎さん

 「科学館が各地にあり独自性が求められる中で、このミールは他にない展示。苫小牧はもちろん、全国の子供達に見てほしい」と、同センター学芸員の島崎雅之(まさし)さん(47)は胸を張る。さらに「1世代前のステーションと思われがちだが、実はISSの現役のモジュール『ズベズダ』は構造がミールのコアモジュールとほぼ同じ。つまり、ここ苫小牧では宇宙開発が今、生きている姿を体感できる」と解説する。

 なお、展示品のミールは飛行士が体を洗うシャワー(実際にはほぼ使われなかった)の位置が異なるなど、アレンジされた部分がある。見学用階段の部分には本来、飛行士の個室の一つなどがあった。精密機器のような一部の装備は、日米など西側諸国への技術流出を避けるといった理由で、ソ連側によりダミーに取り替えられた可能性がある。

「子供たちに」地元企業が寄贈

 ミールが苫小牧にやってきたのには、特別な経緯がある。同センターの資料や島崎さん、また、地元の日本宇宙少年団分団のリーダーとしてミールの活用に深く関わってきた日本宇宙少年団理事の藤島豊久さん(73)などによると、立役者がいる。地元に本店を置く建設会社「岩倉建設」に務め、後に苫小牧市長を5期務めた岩倉博文さん(元衆院議員、今年4月死去)の熱意が実ったものという。

 1980年代後半の地方博ブームの中、89年に名古屋市で開催された「世界デザイン博覧会」にこのミールが展示された。翌年、これを岩倉建設が国内の別の企業から購入した。藤島さんによると正確な購入額は非公開で、10億円弱だったという。

展示を前に語る藤島さん。「ミールは教育に大きな役割を果たしてきた」展示を前に語る藤島さん。「ミールは教育に大きな役割を果たしてきた」

 当時、北海道には苫小牧などに航空宇宙産業基地を構築する構想があった。そこで、日本青年会議所の幹部で北方領土問題などを通じソ連との接点もあった岩倉さんが、地域での啓蒙のシンボルの役割を、ミールに期待したようだ。岩倉建設保有の下での展示や保管の時代を経て1998年、「将来の苫小牧を担う子供たちのために」と同センター隣接地に運ばれ、市に寄贈された。当初は屋外展示だったが、風雪による劣化を避けるため、市は翌99年に専用の展示館をオープンさせた。

 岩倉さんから「ミールはお前に任せる」と言われ長年、活用に汗を流してきた藤島さん。「夜空を見上げれば星があるのだが、触れて体験できる宇宙も必要だ。小さい時の体験は一生モノ。宇宙少年団の活動をはじめ、ミールは子供たちの教育に大きな役割を果たしてきた」と振り返る。

コアモジュール内。(左)操縦室。奥にはドッキングポートが見える。(中央)飛行士の作業スペース。手前に作業台、右奥に個室、左奥にはクバントへ通じるドッキングポートがある。上の黄色い突起物がシャワーだが、本来の位置とは異なるという。(右)トイレコアモジュール内。(左)操縦室。奥にはドッキングポートが見える。(中央)飛行士の作業スペース。手前に作業台、右奥に個室、左奥にはクバントへ通じるドッキングポートがある。上の黄色い突起物がシャワーだが、本来の位置とは異なるという。(右)トイレ

邦人初飛行で滞在、米国と共同計画も

 冷戦体制下、米ソは激しい宇宙開発競争を繰り広げた。有人月面着陸は1969年、アポロ11号により米国が勝利。続いて、地球上空の低軌道とよばれる領域で、米ソは異なるアプローチを採った。米国は、飛行士も物資も運び多彩な用途をこなせる再使用型宇宙船、スペースシャトルの開発に注力。これに対し、ソ連は飛行士の長期滞在や宇宙実験のノウハウを積もうと、ステーションの展開へ舵(かじ)を切った。なお、米国もステーションを運用する「スカイラブ計画」を実施している。

 米航空宇宙局(NASA)などの資料によると、ソ連は1971~82年に軍事用を含め7機のステーション「サリュート」を打ち上げた。後継計画のミールは、初めて多数モジュールのドッキングを想定。86年2月にまずコアモジュールを打ち上げ、翌月に飛行士の滞在がスタートした。翌年のクバントを皮切りに、観測や実験用などのモジュールを加え、96年に完成した。全長33メートル(係留した宇宙船含む)、重さ130~140トン。ロシア語の「ミール」はよく平和と訳されるが、世界や宇宙、農民共同体などの意味もあるそうだ。クバントは量子の意味という。

(左)ミールのコアモジュールの打ち上げ準備作業、(右)医師でもあるロシアのワレリー・ポリャコフ飛行士が、船内で欧州の飛行士の採血を行う様子。ポリャコフ氏がこの飛行で達成した437日の滞在記録は、今も塗り替えられていない(ともにNASA提供)(左)ミールのコアモジュールの打ち上げ準備作業、(右)医師でもあるロシアのワレリー・ポリャコフ飛行士が、船内で欧州の飛行士の採血を行う様子。ポリャコフ氏がこの飛行で達成した437日の滞在記録は、今も塗り替えられていない(ともにNASA提供)

 サリュートはドッキングポートを最大2個しか持たなかったのに対し、ミールは6個を備え、運用性や飛行士の滞在能力が大きく向上。1994~95年には437日もの長期滞在記録を樹立している。飛行士の往復には使い捨ての「ソユーズ宇宙船」、物資補給には「プログレス」が使われた。両機種は改良を続け、今もISSで現役だ。

 1990年には、ソ連で訓練を受け飛行士となったTBS記者(当時)の秋山豊寛(とよひろ)さん(83)が滞在し、日本人初飛行を実現。翌年にソ連が崩壊したが、ロシア連邦により運用が続いた。94~98年には米露の「シャトル・ミール計画」により、両国の飛行士が互いの宇宙船に搭乗したほか、米国のシャトルがミールにドッキング。米国人がミールに滞在するなどして、ISS計画での協力関係の基礎につながった。ロシアは93年、ISS計画への参加を正式決定している。

シャトル・ミール計画でミール(中央)にドッキングした米スペースシャトル「アトランティス」(下)=1995年7月(NASA提供)シャトル・ミール計画でミール(中央)にドッキングした米スペースシャトル「アトランティス」(下)=1995年7月(NASA提供)

 一方、トラブルも続発した。1997年には火災が起きたほか、プログレスが衝突し地球観測モジュールが損傷する事故が発生。酸素供給装置や姿勢制御装置の故障、メインコンピューター停止なども繰り返し、危険が指摘された。米国の飛行士が到着した際、船内に使用済みや故障品の機器、ごみ袋が散乱し、適切な対策がされていなかったという。

 ロシア政府の財政難により、ミールの予算も不足。一時は民間資金で延命する道も探られたが、軌道に乗らず廃棄が決定した。2001年3月、南太平洋に落下させられ、設計寿命の5年を大幅に上回る15年の運用を終了。役割を、1998年に建設を始めたISSに引き継いだ。ミールの生涯を通じ、12カ国125人の飛行士が滞在した。

展示ミールは「精巧な訓練用機体」では

 さて、筆者は苫小牧の展示に大きな意義を感じつつ、気になることがあった。同センターはこのミールを「実物予備機」と紹介しているが、本当かどうかだ。宇宙開発取材歴の長い海外の友人が、展示を見学した上でモックアップ(模型)と認識したと、話してくれたのがきっかけとなった。

 予備機とは、人工衛星などの宇宙機が打ち上げ失敗などで失われた場合に備え、代わりに使えるようにもう1つ造っておく、バックアップのこと。資料によると展示品は、市への寄贈当時から予備機と見なされてきたようだ。同センターの展示説明は「どうして苫小牧市に宇宙ステーション『ミール』の予備機があるの?」「こちらにある『ミール』は製造から30年以上が経過しており、展示用に改装されているため動かすことはできません」などと記している。島崎さんは、コアモジュールは実物予備機を一部改装したもの、クバントは模型とみられると理解しているという。

 一方、島崎さんが「一番お詳しいのでは」という、藤島さんに尋ねた。その結果、「ミールのコアモジュールは訓練用で、クバントは模型だと岩倉さんから聞いた。いずれも宇宙に持って行けるものではない」とのことだ。また、2008年の大きな行事をきっかけに「あちこち外してみた」ところ、軽量化のための内壁の構造やエンジン内の配管など、外見で分からない部分まで造り込まれていた。訓練用として、極めて精巧に造られているとの認識を深めたという。

展示されたコアモジュールの、船内外をつなぐ見学用階段が取り付けられた部分の頭上付近。意外なほど壁が“あっさり”薄いように、筆者は感じたが…展示されたコアモジュールの、船内外をつなぐ見学用階段が取り付けられた部分の頭上付近。意外なほど壁が“あっさり”薄いように、筆者は感じたが…

 同センターと藤島さんの認識との間に、違いがみられる。展示の基本的事実関係であるだけに、当事者による確認が望まれる。

 筆者は技術面に全く疎い素人ながら、例えば船内外の境界部分を観察し「この程度の壁で、宇宙空間で10年以上も気密性を保ち、飛行士を守れたのか」と、率直に疑問を抱いた。宇宙で使える物ではないとの印象を強めた。同時に、モックアップの語は「見た目のみ表現した実物大模型」といった意味で使われることが多く、精巧さのあるこの展示には当てはめにくいとも感じた。

宇宙開発への関心高める第一級史料

 ただし、この展示が実物予備機でないとしても、宇宙開発史を物語る第一級の史料であることは疑いないだろう。苫小牧で大切に展示され続けたことで、どれほど多くの人々の宇宙への関心を高めてきたことか。同センターが人々の熱意に支えられてきたことも、お世辞ではなく印象的だった。取材の過程で、ある宇宙関係者から「どっちでも、いいじゃないか」との声もいただいたが、価値が高いという意味では同感だ。本稿には指摘はするが、展示の意義を損ねる意図がないことをくれぐれも強調したい。

 宇宙開発に詳しい宇宙航空研究開発機構(JAXA)名誉教授の的川泰宣さん(83)も、岩倉さんから訓練用と聞いたという。「飛翔するための予備機ではなく、訓練のために装備などの要点ができていればよい空間として造られたのだろう。日本では苫小牧の展示が、ミールはどんなものだったのかと見られる唯一のものと思われ、非常に貴重だ」と話している。

(左)展示館2階からは、全体を見下ろせる。手前がクバント、奥がコアモジュール。(右)機体に刻まれたキリル文字「МИР(ミール)」とソ連国旗が印象的(左)展示館2階からは、全体を見下ろせる。手前がクバント、奥がコアモジュール。(右)機体に刻まれたキリル文字「МИР(ミール)」とソ連国旗が印象的

 最後に私事となるが、ミールにはかつて、視野を広げてくれた恩義がある。1989年、高校の帰りに地方博の「横浜博」に寄り道し、ソ連の宇宙展示にショックを受けたのだった。見慣れぬミールのモックアップが目玉展示。スペースシャトルの説明は米国のものではなくソ連の「ブラン」。ロケット開発の立役者はゴダードなどではなく「グルシコ」…。それまで新聞や本で得たのは主に、米国中心の西側の宇宙開発情報。まるでパラレルワールドに入った気分だった。

 横浜の展示は筆者に「今まで世界の半分しか見ていなかった」と衝撃を与えた。この影響は、後に報道記者になっても続いているように思う。ミールとの36年ぶりの再会に感動しつつ、苫小牧の地を辞した。

1989年、横浜博でのソ連によるミール展示。筆者が個人で撮影したもの(草下健夫撮影)1989年、横浜博でのソ連によるミール展示。筆者が個人で撮影したもの(草下健夫撮影)
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