2025年のノーベル生理学・医学賞に大阪大学特任教授の坂口志文氏が、化学賞に京都大学特別教授の北川進氏が、それぞれ共同研究者とともに選ばれた。坂口氏は「免疫応答を抑制する仕組みの発見」が、自己免疫疾患やがんなど免疫が関わる病気の予防や治療につながると評価された。また、北川氏は気体を自由に出し入れできる「金属有機構造体(MOF)の開発」が評価され、環境・エネルギー問題や新素材開発など広範な分野での応用が期待される。
日本人研究者が生理学・医学賞を受賞するのは7年ぶりで坂口氏は6人目、化学賞は6年ぶりで北川氏は9人目だ。2021年を最後に日本人の自然科学系3賞の受賞がなかっただけに、15年以来10年ぶりの同年ダブル受賞の快挙に国内は沸き立った。
不遇な時代も地道に努力を積み重ねて栄誉に輝いた2人は、そろって基礎科学や基礎研究への支援を訴えた。背景には最近の日本の研究力低下がある。明るいニュースは、同時に自由で進取な気風に富んだ研究環境の大切さと、そうした環境の確保・整備が今後の課題であることも浮き彫りにした。
記者会見で受賞決定の喜びを語る坂口志文氏(左、大阪大学提供)と北川進氏(京都大学提供)
過剰免疫を抑える制御性T細胞を発見
日本の免疫研究の歴史の中で過去、1987年に利根川進氏が免疫抗体の多様性を解明した業績で、また2018年に本庶佑氏が免疫細胞で働くたんぱく質「PD1」を発見した業績で、それぞれ生理学・医学賞を受賞している。このほかにも「ノーベル賞級」と言われる成果を挙げ、世界的にその名が知られる研究者は何人もいた。その一人が坂口氏だった。日本の免疫学研究のレベルは世界的に見てもかなり高かった。
坂口氏は、1970年代末から80年代にかけて免疫細胞の研究に打ち込んだ。やがて体内に侵入したウイルスなどの病原体を異物として攻撃する免疫細胞であるT細胞の中に過剰な攻撃が体に害を及ぼさないよう抑制する役割を担う種類があることを発見し、1995年にこの免疫細胞を同定して論文を発表。2000年に「制御性T細胞」と命名した。
制御性T細胞は、自己免疫疾患やアレルギー、がん治療などの治療や臓器移植後の拒絶反応対策にも活用できる。このため21世紀に入ってからは免疫学の中でも注目の研究テーマだった。制御性T細胞を発見した坂口氏は、ノーベル賞受賞の有力候補として毎年その名が挙がっていた。そのことはご本人も知っていたはずだ。
「うれしい驚きに尽きる。研究がもう少し臨床の場で人の役に立つとご褒美があると思っていた。この時点で名誉をいただくのは非常に光栄だ」。大阪大学での記者会見でこう語った言葉に長い間の自分の研究に対する自負と誇り、そして喜びが率直に表れていた。
過剰な免疫反応を監視し、見つけて抑制する制御性T細胞(Treg細胞)のイメージ図(ノーベル財団提供)
研究環境が変わりながら努力重ねる
坂口氏の研究生活は決して順風満帆ではなく、苦難の時期もあった。1977年に京都大学大学院から愛知県がんセンターに転じ、胸腺を取り出したマウスが自己免疫疾患を起こすことに興味を抱いて基礎研究を始めた。その後、京都大学で博士号を取得して海外に出た。米国のジョンズ・ホプキンズ大学、カリフォルニア大学サンディエゴ校などの大学や研究所4カ所を渡り歩きながら研究を続けた。
日本に戻り、新技術事業団(当時、現・科学技術振興機構=JST)の研究支援を受けた。制御性T細胞の論文を発表した1995年に東京都老人総合研究所免疫病理部門の部門長に。京都大学再生医科学研究所の教授として母校に戻ったのは99年。大阪大学免疫学フロンティア研究センターの教授就任は2011年のことだ。ノーベル賞受賞につながる研究は、恵まれた1カ所の研究環境で一貫して行われたわけではなかった。環境が変わりながらも辛抱強く努力を重ねてきた。
そうした時期の主に前半、免疫学の分野では免疫力そのものを抑える働きがある免疫細胞など存在しないと考えられていた。論文を出しても掲載を断られる経験もした。そうした不遇の時期も乗り越えて栄誉に輝いた。電話で祝意を寄せた石破茂首相に「頑固にやってきたことが今日につながった」と語った。
受賞の報は一番に妻教子(のりこ)さんに伝えたという。「家内と一緒にやってきたので喜んでくれると思っていた」(10月6日の記者会見)。愛知県がんセンターで当時皮膚科の研究をしていた教子さんと出会い、研究を共にした。そして一緒に渡米した。教子さんは1995年の論文に共著者として名を連ねている。「(制御性T細胞の存在が)世の中に認められて一番うれしい」。7日の記者会見に同席した時の言葉に苦労も分かち合った実感がこもっていた。
2025年のノーベル生理学・医学賞が坂口氏ら3人に贈られることが発表された記者会見場の様子(カロリンスカ研究所の記者会見を伝える動画から。スウェーデン・カロリンスカ研究所/ノーベル財団提供)
受賞決定翌日の10月7日に大阪大学本部事務機構棟で熊ノ郷淳学長(お祝いの垂れ幕の左)ら同大学関係者に祝福される坂口氏(垂れ幕の右)(大阪大学提供)
超微細の「ジャングルジム」が多種多様な用途に
北川氏が開発したMOFは、金属イオンと有機分子が交互に積み上がった構造の画期的な新材料で、微細な孔が無数に規則的にある「ジャングルジム」のような構造が特徴だ。大きさを調整できる微細な空間を使ってさまざまな気体を貯蔵したり、分離したりできる。製造法も溶液を混ぜるのが基本で簡易。金属イオンと有機分子の組み合わせによる多くの構造が可能だ。
このため、二酸化炭素(CO2)の吸着や次世代エネルギーとして注目される水素の貯蔵など環境・エネルギー分野のほか、産業分野を含めた多種多様な用途が期待されている。材料科学分野期待の新素材だが、特に注目されているのは環境分野での活用だ。大気中で増えれば地球を温暖化するCO2を回収でき、国内外の各地で一部は発がん性が否定できないとして問題になっている有機フッ素化合物(PFAS)を除去できる。
さまざまな気体を自由に出し入れできるMOFのイメージ図(ノーベル財団提供)
不要な物質を吸着する材料として活性炭やゼオライトが広く知られる。だが、MOFのように孔の形状や大きさを微細に、精密に操作することは難しかった。北川氏は1990年代に入って共同研究者と研究を進め、97年に自在に製造できるMOFがメタンや酸素、窒素を吸着・貯蔵できることを示した。
北川氏は一連の研究でまず、骨格構造の中で見過ごされがちな空間、つまり孔に注目した。1992年に実験で得た結晶材料の構造を見た時に無限の孔が開いていた。「それを見た時面白いとピンと来た。非常に興奮した」。受賞決定後の記者会見で研究の突破口になったきっかけについてこう説明した。そして「有機分子と金属イオンはすぐに壊れるというのが常識だったが、丈夫な構図を持っているのを示せた。他の受賞者とのチームワークで(成果が)認められたと思う」と喜びを淡々と語った。
北川氏ら3人へのノーベル化学賞授賞を発表するスウェーデンの王立科学アカデミーの委員会メンバー(スウェーデンの王立科学アカデミーの記者会見を伝える動画から。スウェーデンの王立科学アカデミー/ノーベル財団提供)
京都大学の関係者からお祝いの花束を受ける北川氏(京都大学提供)
常識を覆した衝撃的な発見
北川氏は京都大学大学院工学研究科で博士課程を修了後、近畿大学理工学部の助手になった。そして助教授だった1990年ごろに金属イオンや有機化合物などの分子が自然と組み上がる「自己組織化」の手法を研究。これがその後のMOFの開発につながった。ゼオライトのような硬い無機物と異なり、軟らかい有機物では安定した多孔性物質はできないという当時の常識を覆す衝撃的な発見だった。
発表したデータを疑問視されるという研究者として屈辱的な経験もしている。苦労は限りなくあったという。「論文を発表したらそんなの本当かという感じで非常にたたかれた。(それでも)一切揺らがずに進めていこうという気持ちになった」「たたかれて涙か汗か分からない経験をした」。現在、理事・副学長を務める京都大学での記者会見で学界の空気を乗り越えた当時をこう振り返っている。坂口氏同様、北川氏も逆境を糧としていた。
北川氏は1981年に日本人研究者として初めてノーベル化学賞を「化学反応のフロンティア軌道理論」で受賞した故・福井謙一氏の流れをくむ研究室の出身だ。先輩に2019年の化学賞を「リチウムイオン電池の開発」で受賞した吉野彰氏がいた。「福井学派の流れにどっぷりと漬からせていただいて今日に至っています」。2人は学会などで顔を合わせていた。
受賞が決まった日の深夜に2人は電話対談をしている。企画・取材した共同通信によると、吉野氏が「(福井さんの)DNAを私たちは受け継いでいる」と語りかけると、北川氏は「その通りです」と返答。福井氏は常々、研究では応用を意識するように言っていたと振り返った。吉野氏は後輩の偉業に「持続可能な社会への武器になる」と評価していたという。
ノーベル化学賞を受賞した故・福井謙一氏(左)。右側は73年に物理学賞を受賞した江崎玲於奈氏(1981年10月撮影)
74歳、京大出身、研究への信念、起業など、多い共通項
坂口氏と北川氏は共通項が多い。それぞれ出身地は滋賀県、京都府と近く、現在同い年の74歳。古希を過ぎてなお旺盛な探求心で今も研究を続けている。また、自由な雰囲気の校風を誇る京都大学の出身だ。2人ともJSTの複数の研究支援を受け、研究代表者も務めている。
日本人研究者の自然科学系3賞の受賞者は、米国籍取得者を含めると計27人に上る。そのうち京都大学出身は10人と大学別で最多だ。研究者を目指す若い学生に対して北川氏は記者会見で「京都大学の伝統でもある知的好奇心を大切にし、面白いことをやってほしい」と、また「京都大学の福井学派」については「分野は違っても思想、伝統がある。誰もやっていないことをやる、面白いことをやることが伝統として出来上がった」と述べている。
そして2人が強調したのは苦しい時にあっても興味を持続して努力を続けることの大切さだ。研究への信念も共通していた。「自分で興味があることを大切にすると新しいものが見えてくる。ずっと続けると気が付いたら面白い境地に達する」(坂口氏)。「(どんな時も)自分の感性を信じること。(誰もが考えていないことに)チャレンジすること。そして(研究対象に対する)興味が融合して私自身の方向性を変えた」(北川氏)。
2人の研究成果を社会の中で生かすためのスタートアップ企業が設立されている。坂口氏の成果を基に2016年に大阪大学発の「レグセル」が設立された。現在本社を米国に移し、世界を視野に自己免疫疾患やがん治療などに貢献できる創薬に取り組んでいる。また15年には北川氏の成果を社会実装につなぐことを目的に「アトミス」が設立された。同氏は現在科学顧問を務め、多様な活用を目指している。
日本の注目論文数は低迷、かつての面影なく
自然科学系3賞の日本人研究者は2000年以降だけで20人を超え、米国に次ぐ。日本の研究力の底力を示している。ただ、授賞対象の研究成果は20~30年前が多く、研究の芽が出た時期はそれ以上さかのぼるものが目立つ。残念ながら足元の研究力はここ10年あまり、国際比較で顕著に低下している。
文部科学省の科学技術・学術政策研究所が8月に公表した「科学技術指標2025」によると、注目され、数多く引用された「トップ10%論文」数の比較で21~23年は世界で13位と低迷。1位の中国、2位の米国に大きく差が付いている。論文数や注目論文などで常に上位に入っていた1980年代から2000年初めごろまでの面影はない。引用が多い論文が必ずしも「ノーベル賞級」と言えるわけではないが、今後も受賞者が続くかどうかは心もとない。
坂口氏は石破首相との電話で「日本の基礎研究に対する支援が不足している。免疫の分野では日本はドイツの3分の1です。基礎研究に対する支援をお願いしたい」と訴えた。北川氏も、阿部俊子文部科学相から祝意を伝える電話の中で「基礎研究は息が長い。皆さんが言うように基礎研究を重視して大きくする施策をお願いしたい。若い人の研究時間を確保する施策が必要で、研究支援人材が増えるようにしてほしい」と述べた。基礎研究は社会実装につながる応用研究に引き継ぐことが重要で、基礎研究には時間がかかることから人的支援も必要との考えだ。
2021~23年の「トップ10%」(左)「トップ1%」(右)それぞれの補正論文数の順位(科学技術・学術政策研究所提供)
若手研究者のための環境の整備を
1981年に福井氏の化学賞受賞が決まった時に京都支局で取材して以来、何らかの形で日本人研究者のノーベル賞受賞の歴史を見続けてきた。経済安定成長期、バブル期・その崩壊期、経済の低成長・低迷期…。40年あまりの間に時代も社会経済も大きく変わった。だが、時代を超えて生理学・医学賞は生命・人間とは何かを問う生命科学の発展に寄与し、医学・医療の進歩につながった。物理学賞と化学賞は基礎研究の成果を生かしたイノベーションの鍵を握り、日本の経済社会にも貢献してきた。
基礎研究の大切さや強化の必要性はこれまでも多くの日本人受賞者が強調してきた。ここ10年その声は強まっていた。北川氏は荘子の格言「無用の用」の言葉を使って、すぐには役に立たないと思われた基礎研究もやがて社会の役に立つようになった実感を伝えた。
今年の化学賞を北川氏に授与することを発表したスウェーデンの王立科学アカデミーは「人類が直面する大きな課題の解決につながる可能性がある」と説明した。私たちにとっても誇らしい評価だった。「日本発」の研究成果や技術がこれからも長く世界的に高く評価され、国内外で生かすことができるかどうか―。それは、未来を担う若手研究者が自由で元気な研究を進めることができる研究環境を確保し、整備できるか、にかかっている。2人の言葉には今後の日本の科学界に生かすべき多くの示唆に富んでいた。
1981~2023年の主要国の研究開発費総額(名目額)の推移(科学技術・学術政策研究所提供)